ストックホルム「Imouto」

Imouto

空の色がちょうど藍から黒へと変わろうとする時間、長い昼寝から目覚めた私は、よっこらせと重い腰を上げて宿を後にしレストランへと急いでいた。24時間券をチャージしていたのでバスに乗ってもよかったけど、どうせ1区間足らずなので、腹ごなしがてらゆっくり散歩しながら行くことにする。歯医者の名前がある建物の1階に入るとクロークがあり、コートを預かってもらって予約の旨を告げると、名前を言わなくとも承知している様子だった。

2階に案内されてEsperantoという名前のレストランの中を突っ切ると、衝立で仕切った角の向こうにお寿司屋さんのカウンターと9席の椅子が現れる。つまりレストランの中にもう一つ小さなレストランがあるというわけ。残りの8席は4組のペアで既に占められていたのを見て、確かに1人でレストランに来るという習慣は一般的ではないのだろうなと再認識して、少し身構える。たとえそれが寿司屋のカウンターであろうとも。ちょうどつけ場の全体がよく見える、真ん中あたりの席を確保してもらっていた。壁際からは貫禄ある佇まいのミシュラン坊やがとぼけた面持ちでこちらを見下ろしている。

メニューは1200 nok(ノルウェークローネ)の「おまかせ」のみ。予約も18時と21時の1日2回限定。すべての客に同じ順序でサーブされる。着席して飲み物とアレルギーの有無を聞かれたときには既にコースはスタートしていた。最初の一杯には、ストックホルムの地ビールメーカーOmnipolloがこのレストラン向けに作っている特製のクラフトビールを注文してみる。ビールの種類については不勉強だけれど、ペールエールみたいに香り高い。

先付けには全部で6品。「うずらの卵」、「茄子の炙り海苔巻き」、「フィッシュスキンの飛魚子包み」、「帆立刺身」、「スモークしたカニの湯葉包みキャビア添え」、「キノコのお茶に浸した自家製絹ごし豆腐」の順番に、それぞれのゲストのタイミングに合わせて出される。プレゼンテーションもすばらしく、一つ一つのお皿にしっかり時間をかけて丁寧に作っていることがよくわかる。まるでシウマイのような湯葉包みに付いてきたポン酢を除いては、ベースの味付けはどれも最低限で、できるだけ素材そのものの味を楽しんでもらいたいという意図が理解できる。辛口の日本酒をお任せでお願いすると「希土」を勧めてくれる。最初にテイスティングさせてから、ワイングラスに注いでくれるので、日本酒とはまた違ったお酒を飲んでいるような少し不思議な気分。

続けて13貫のお寿司のコース。レモンソール、赤魚、ターボット、パイクパーチ、白身魚ランプフィッシュキャビア、赤座海老、イワナ、アンコウ、ニジマス、ニシン、パイクパーチ&赤魚のアラの炙り、イクラの手巻の順番。考えてみれば、こちらで手に入る魚は日本の市場とまるっきり条件が違うわけで、それを制約と捉えずに可能性へと転換しているのがすばらしい。赤酢を使ったシャリ、鮫皮を貼ったおろし器で擦る本わさび、煮切りを刷毛で塗って付け台に置くなど伝統的な江戸前寿司のスタイルに則っている一方で、淡水魚を使ったり、バジルオイルで風味を付けたり、いくつかのネタは生臭みをとるためかバーナーで軽く炙って供しているのもあり、どれもが新鮮な体験だった。お味噌汁の代わりにランゴスチンのお出汁が出てきたり、味の評価はすべて満点とは言わないまでも、繊細な味付けと食材のいろいろな可能性を引き出そうという試みには驚かされるばかり。

隣のご夫婦は「Esperantoには来たことがあるけど、Imoutoは初めて」とのこと。弟さんが日本に勤務されている関係で、日本へも旅行に訪れたことがあると話していた。一番思い出に残ったのは京都の旅館で、畳に座ってしゃぶしゃぶを食べたことだったのだそう。「Globefishは食べたことある?」と質問されたものの英語が理解できず、「あの毒のある魚…」という説明でようやくフグだとわかり、「しゃぶしゃぶにしてもお刺身にしても美味しいですよ」と返答する。話の流れで大将、いやメインシェフも交えて少し会話。日本語は通じないが東洋系の顔立ちのシェフで、日本人が経営するスウェーデンの和食店で経験を積んできたのだそう。

京都の煎茶と一緒にバニラアイス、ビートのファッジ、味噌クリームのミルフィーユと最後にデザート3品が出て、もうお腹がいっぱいで苦しかったのだけれど、「食後酒に梅酒はどう?」と勧められ、ついお願いすることに。隣のカップルの女性が興味深そうな顔をしていたので「プラムのワインです」と説明する。ポーランドでも現在チョーヤが大攻勢をかけていることだし、欧州人たちにも梅酒はどんどんメジャーな存在へと昇格していくだろう。

私はただの食いしん坊なだけで食通ではないし、普段高級な寿司屋に行く機会もあまりないので、「寿司とはこうでなければ」という固定観念があまりない。回転寿司でも、立ち食いの寿司屋でも、味覚の審級だけクリアしていれば、環境や作法に頓着なく素直に美味しいと思う方だ。だから、この伝統的な下地もあり現代風に洗練されてもいる、ハイブリッドないわば「ヌーベル・スシ」は日本食なるものを再定義するようで面白いし、味覚が揺さぶられるような新しい体験ができれば何だって十分なのだ。

そしてここでは、そんな難しいことを考えなくても、カウンターに囲まれた小さな空間で立ち上る、見知らぬゲスト同士の親密な空気や一体感のようなものに触れながら、楽しい食事のひとときを過ごすことができた。それだけでも十分得難い経験だろう。さながら秘密のイベントに参加する観客の一人になったような、あっという間の2時間半が過ぎた。

[Visited on: 2017/03/XX]
[Published on: 2017/03/15]